素人の「奇跡」との付き合い方

 本を読んだり働いたりサッカーを見たり、な6年だったが、久しぶりに書きたいなと思うことがあったのでブログを更新。
 ネタはオリンピックですっかり霞んだようにも見える、あの佐村河内氏のゴースト問題についての話。
 なんとなく琴線に触れるものがあって色々ネット上を徘徊していたが、これが一番腑に落ちた。


より正しい物語を得た音楽はより幸せである


 なるほど、これだ。あの謝罪会見における気持ち悪さがすっとなくなったように感じた。
 それにしても自身が「ピアニート公爵」という「物語」を持つ森下氏だけあって、この意見には説得力を感じる。
 彼が「ピアニート侯爵」として世に出るきっかけになったニコ動の動画が、いまや珍しくなくなった「二次元アイドル」という「物語」を持ったキャラクターの楽曲をアレンジしたものだというのも面白い。


 しかし、である。音楽を専門に学んだ人ならば一度聞いただけでこの「奇跡の音楽家」に対する胡散臭さを感じることができるだろうが、そうではない素人は報道に流されるままなのだろうか。
 音楽に限らず、これからも「現代の奇跡」とやらに振り回されることになるのだろうか。
 ……何かあったような気がする、と悶々としながら昨日の夜布団に入って思い出したのが夜中の3時。オリンピックの開会式を見るか寝てるかしてる人が大多数であろう中で、エアコンもつけずに震えながら本棚をかき回す自分、アホである。
 で、見つけたのがこれだ。

 こういうことばを無造作に連発されると、その背後に、歯のたたないものはすべて”狂気”という便利なことばで片づけてしまおうという俗っぽい逃避的姿勢を感じて、げんなりしてしまう。
           ――瀬戸川猛資『夜明けの睡魔』「いやなことば」

 故・瀬戸川猛資氏が『夜明けの睡魔』でスタンリイ・エリンを紹介する際の前振りとして書かれた一文である。氏はこの後、エリンが”狂気”からは最も縁遠く、それゆえの凄味があると紹介しているのだが、それは割愛。
 この「狂気」を「奇跡」に置き換えると今回の件に対する鋭い批評になる。
 安易に「奇跡」とか俗っぽいことこの上ない。大体にして幽霊や超常現象を鼻で笑う一方で「現代の奇跡」を賞賛するとかダブスタにもほどがある。
 瀬戸川氏のこの言葉がそのまま「現代の奇跡」に対する痛烈な批判にもなっていることにようやく思い至った。


 自分はクラシック音楽は素人だし、他にも素人同然のジャンルはたくさんある。
 だが、安易に「奇跡」に飛びつくことは決してあってはならないと思う。
 『夜明けの睡魔』で瀬戸川氏はルース・レンデルも取り上げていて、彼女に対して批判的な論を展開している。これもまた面白いのだが、この「”狂気”なんて呼ばないで」の最後の一文をもじって、この件の自分なりの教訓としたい。


 ――マジで”奇跡”なんて、すごむのはやめようぜ。