『魔術師の密室』プロローグ「闇に消えた魔術師」

「4月も半ばを過ぎると、夜中になってもそれほど寒さは感じないな。」
 警視庁騎馬警察隊・第三部隊の警部、刈谷正弘は部下の報告を聞きながら呟いた。
 月は雲に覆われ、辺りは暗闇に包まれている。闇の中で、街は静かに眠っている。しかし彼らは眠ってはいなかった。闇に溶け込み、息を潜めて静かに待っていた。
 警視庁騎馬警察隊。彼らはこの国の警察組織の中でも非常に特殊な部隊である。一般の警察では手に負えない国内におけるテロ活動、外国のスパイなどの事件や脅威に対して、彼らは警察より強力な捜査で立ち向かう。また、彼らは国家の安全を守るために一般の警察にはない権利と武器を持つことを許されている。
 ここ数年隣国が敵対的な姿勢を強める中、彼らの役割は日々その重みを増している。
 今、刈谷は第三部隊を指揮して街中のとある建物を包囲している。彼らがここにいるのは、ここ数ヶ月で急激に成長したあるテロ組織の幹部クラスの人物が現れるのを待っているためであった。彼らは組織が活動を始めた直後から細心の注意を払って捜査を進めた。何人ものスパイを犯罪組織に送り込み、情報を集め、周到な罠を作り上げたのだ。


 問題の男(いや、女かもしれない、と刈谷は思い直した)の乗った二頭立ての馬車がゆっくりと走ってきた。刈谷たちが包囲する建物の前に止まる。ドアが開き、その人物が降りた。御者がドアを閉め、馬車はゆっくりと走り去っていった。
 刈谷はその人物を観察した。厚着をしていることもあってか、この距離からでは男女の区別もつかない。背格好は中肉中背といったところだろうか。少なくとも遠目からでもはっきりと分かるほど太っていたり、痩せていたり、あるいは背が高かったり、低かったりということはない。
「つまらん。」と刈谷は愚痴った。
 問題の人物が中に入った。
「突入しますか?」と部下の宮下がたずねた。いい奴だが血の気が多すぎるのが玉に瑕だ、と刈谷は思っている。
「いや、事前の打ち合わせ通り、川上からの合図を待て。」
 川上とは会合の相手である。二人の会話から分かる通り、彼もまた騎馬警察隊のスパイである。
 ここまでは万事予定通りに進んだ。後は川上が会合予定の部屋で合図をするのを待つだけだった。
 しかし次の瞬間、刈谷の予想だにしなかった事態が発生した。
 ドスン! という何か重いものが壁にぶつかった音とバリン! というガラスの割れる音がほぼ同時にした。
「なんだ! 何があった!」と宮下が叫ぶ。
 刈谷は割れた窓を見上げた。会合が予定されていた部屋の窓だ。川上に何かがあったのか?
 彼は一瞬で判断を下して叫んだ。
「突入しろ!」
 命令と同時に、今までまったく人気のなかった通りが突如として喧騒に包まれた。全員が腰にサーベルを着けた、第三部隊の面々である。当初の予定通りに先発の二人が中に入っていく。
 その様子を刈谷は不安げに見ていた。
 川上がそう簡単にやられるとは思えない。一体何があったのか。そしてあいつは何者なのか。
 その時。
 悲鳴と共に、二人の男が吹っ飛んできた。その後からゆっくりと黒衣の人物が現れる。
 闇で染め抜いたような漆黒の衣装の下から長さ40センチ程の木の棒を取り出した。それを自分を囲む第三部隊の隊員たちに向ける。
 刈谷の背中を悪寒が走った。
 次の瞬間、不可視の力が走り隊員の一人が吹き飛ばされた。ありえない出来事を見て怖気づいたのか、隊員達の包囲網が緩んだ。
 その隙を逃さず、黒衣の人物は路地に消える。
 刈谷は呆然として呟いた。
「黒魔術師……」


この世界には魔術師がいる。
 魔術師とは文字通り、魔法を使う者のことである。彼らは物理法則を無視した超常現象を引き起こしたり、一般の人々には分からないこと、できないことを軽々とやってのけたりする。もちろん誰もが魔術師になれるわけではない。才能ありと認められたごく一部の限られた者だけが厳しい修練を積んで魔法を学び、魔術師となれる。魔術師はこの世界のエリートなのだ。
 その魔術師にもまた、色々な制約がある。その代表的なものが「禁じられた魔法」の使用だ。他人を殺傷させたり、呪いをかけたりする魔法は魔術協会によって「禁じられた魔法」として封印され、使用を禁じられている。
 しかし、魔術師の中には道を誤り「禁じられた魔法」を使うようになり、その影響で心を荒廃させ、体を蝕まれていく者がいる。彼らは黒魔術師と呼ばれ、魔術協会は彼らに対抗するための魔法部隊を設置している。


 刈谷は「畜生!」と叫んだ。黒魔術師なんて聞いてないぞ。これならば専門の魔法部隊を呼んでおくべきじゃないか!
 しかし彼は優秀な警官だった。すぐに冷静さを取り戻し考える。
 包囲網は既に崩れてしまっている。しかも相手は黒魔術師で、こちらには魔法が使える人間は一人もいない。唯一こちらが相手に勝っているのは人数だけだ。数の力でねじ伏せるしか手はない。
 刈谷は命令を下した。
「奴を追え! 奴は黒魔術師だ! 絶対に一人ずつではかかるな。二人以上で一気にかかるんだ!」
 第三部隊の面々は魔法こそ使えないものの、命令に忠実であることと勇敢なことでは世界一の部隊であった。ただ、この時はいささか命令に忠実すぎたのが問題だったかもしれない。
 隊員たちは鬨の声を上げ、宮下を先頭に黒魔術師の逃げ込んだ路地に突入した。
 たちまちもの凄い騒ぎが起こった。
 十数人の男達が狭い路地を叫びながら土煙を上げて突進する。驚いて目を覚ました犬がけたたましく吠え立てる。誰かがゴミ箱を蹴飛ばした。鉄の箱はもの凄い音を立てて宙を舞い、そのまま空中で静止した。
次の瞬間、ゴミ箱がまるで意志を持つかのように隊員たちに向かって飛んできた。
先頭を走っていた宮下が間一髪、サーベルを抜いて受ける。
「くそ!」と口の中で呟き、宮下は再び走り出した。
 後ろからは刈谷の怒号が飛ぶ。
「追え! 追え! 絶対に逃がすな!」
 刈谷の声が響くたびに隊員たちは大声で応え、前方を走る黒魔術師を猛り狂った猟犬のように追いかける。
 家々の明かりが点き、騒ぎに驚いて目を覚ました人々が窓から顔を出してきた。
「なんだ、マラソンか?」
「なんでこんな時間に走ってるんだ?」
「分からん、なんか事情があるんだろう。」
 彼らは再びベッドにもぐりこんだ。

 怒号を飛ばし、隊員たちと共に黒魔術師を追いかけていた刈谷はふと、自分達が袋小路に向かっていることに気づいた。
 奴はこの辺りの地理にあまり詳しくないらしい。この先には左右に分かれるT字路がある。左に曲がれば大通りだが、右に曲がればその先は行き止まりだ。
 黒魔術師はT字路を迷わず右に曲がった。
 刈谷は狂喜した。その先を左に曲がったらすぐに行き止まりだ。逃げ道はない。
「もうすぐ袋小路だ! 絶対に逃がすなよ!」
 一段と大きな歓声が上がり、隊員たちが全速力で走り出す。
 黒魔術師が角を左に曲がった。宮下を先頭に隊員たちが一斉に袋小路に飛び込んだ。
 次の瞬間、もの凄い罵声が飛び交った。
最後尾から袋小路を見た刈谷は自分の目を信じられなかった。
 目の前には壁があった。確かにそこは袋小路だった。
 しかし、そこには黒魔術師はおろか、猫の子一匹いなかったのだ。
「なんでいないんだ!」
「ちゃんと見たのか?」
「確かに曲がったはずだ!」
 隊員たちは口々に叫びながら必死で壁を調べる。誰もが目の前で起こった奇跡を信じられなかった。
 刈谷は一人黙っていた。
 奴は魔法を使って逃げたに違いない。しかし、どんな魔法を使って? ほんの一瞬前には確かにそこにいたはずなのに……。


月が雲から顔を出し、ほんの一瞬前に魔術師がいたはずの場所を照らし出した。
まるで舞台から一瞬で消えたマジシャンに当てられるスポットライトのように……。